銃弾と血が少女を戦士に変える残忍なる通過儀礼、オルフェンズ第16話でございます。
顔見世した時から『訳ありです』という看板首に下げていたフミタンが、積み上げた物語通りクーデリアを鍛えあげる最後の鉄槌として散っていくお話でした。
露悪的な言い方をすればキャラクターが成長するための踏み台なわけですが、スパイとしての使命よりもお嬢に光を見た感情を優先して行動した彼女の物語には、一抹以上の真実味があった気がします。


今回のお話の主役はフミタン……ではなくクーデリアでして、今回コロニーで起きた虐殺も含めて、これまでさんざん描写された『虐げられしもの』の悲惨な境遇を、政治活動家として作中唯一ひっくり返せる彼女に、物語的説得力を作るエピソードでした。
今回のイニシエーションを咀嚼することで、明彦がそうであったように子どもは大人となり、フミタンがいなければどこに行けばいいのかわからない少女は、自分で道を見つけ歩き始めるのでしょう。
このお話はタイトルとは真逆に、鉄と血だけで状況がひっくり返らない状況を結構丁寧に描写してきており、お嬢の理念と立場が歪んだ世界をひっくり返す一番大きなパワーになることは、それなりに分かりやすく提示されていると思います。
しかし第1話で三日月の汚れた手を握らなかった彼女には、鉄と血しか最初から与えられていない『虐げられしもの』の代表者となるには、痛みと傷と決意が足りなかった。
フミタンの死がその資格を与えるものだというのは、今回印象的に抜かれた『血まみれの手』を見ればよく分かるでしょう。
16話かけ、大事なものを奪われてようやく、クーデリアは三日月と同じように汚れて、現実的で、個人的な立場に追い込まれることが出来たわけです。

思い返せば第1話からクーデリアは、理想論を相手に押し付ける夢想家ではなく、ミカの立場を慮ることの出来る、理想と現実の中間点で浮遊している存在として描かれていました。
今回フミタンとクーデリアの過去が描かれたことで、第1話よりも前の風景、革命家たるクーデリア・藍那・バーンスタインが如何にして下ごしらえされていたかが、はっきりと明言されました。
階級格差によって『虐げられしもの』の現状を知らなくても生きていける鉄血世界で、わざわざクーデリアは『虐げるもの』が住む安全な檻から顔を出し、なにか良いことをしようと願います。
両親の意向を無視して『虐げられしもの』の現実を教えたのがフミタン個人の興味から生まれているのか、スパイの使命としてやっていたかは判断がつきませんが、ギャラルホルンやコロニーの支配階級のように檻の中に居続けてもおかしくない立場から、クーデリアが一歩踏み出したのは確実にフミタンの教示あってのことです。

『紙の本を初めて見る』というシーンを鑑みるに、フミタンは『虐げられしもの』に属し、コロニーの労働階級のように『虐げるもの』を恨み反発する側の出身です。
汚れた自分と同じ場所まで落ちてきて欲しいから、矛盾に満ちた現実にクーデリアを置き去りにしたフミタンの行動はしかし、適切な挫折と『虐げられしもの』の現実を教え、『虐げるもの』に属する自分がどう『虐げられしもの』に寄り添っていくのか、考えさせる助けにもなりました。
フミタンの私怨混じりの薫陶もあって、ただ『虐げられしもの』を憐れむだけの傲慢さからは踏み出しつつも、全てをすり潰そうとする現実のアギトからは無力な状態で、クーデリアは物語に入ってきます。
そして、鉄華団やアトラとの交流の中で小さな歩みは積み重ねつつも、決定的な変化を迎えられないまま今回のお話となったわけです。

子供の時『虐げられしもの』に差し出した、口当たりは良いけど根本的解決にならないキャンディのように、操作された情報によって労働者の女神と持ち上げられたクーデリアは、ただ流れに翻弄されるだけで自分の位置を定位できない。
これはは共通なんですが、火星のスラムではただ迷うだけだった状況は、クーデリアの成長とノブリスの陰謀により、銃弾が全てを略奪しにかかるシビアでシリアスな現実的政治に姿を変えています。
フミタンの命によってクーデリアは難を逃れましたが、過去に手を引いて現実を見せ、危険から守ってくれたフミタンはもういない。
保護者の消滅という意味でも、今回クーデリアはもう一度『オルフェンズ』となり、三日月の汚れた手を握る資格を手に入れたのです。

鉄と血で汚れた世界の中での希望として、フミタンの迷いを最終的に自分に引き寄せ、命を奪ってしまったクーデリアが、この孤立をどう受け取るか。
そしてその成長(もしくは逡巡)が革命家としての彼女にどのような影響を与え、世界をどう変化させていくか。
これは今後の物語次第ですし、そういう大きな変化に繋げるために、ここでフミタンが贖われたのだと、僕は思っています。
クーデリアには厳しいイニシエーションとなりましたが、何かを受け取り、クソみたいな鉄血世界を少しだけ良くするような方向に、歩みを進めて欲しい所です。


フミタン・アドモスの死は、クーデリア・藍那・バーンスタインの成長のための踏み台だったのか。
こういう修辞疑問を投げかける時点で、僕がそう思ってはいないことは明白なわけですが、実際フミタンの逡巡は良く良く描かれていたように思います。
スパイとしてバーンスタイン家に潜り込み、ノブリスが求める戦乱で世間を燃やしつくそうと決意した裏側には、今回コロニーで踊らされ殺された労働者と同じ『虐げられしもの』の身勝手な恨みが、ジクジクと燃えていたのだと思います。
そういう立場からすればお嬢の綺麗事は苛立ちの対象ですし、泥の中にぶち込んで自分と同じように汚したくなるのも判る。
……『消えて欲しい』でも『関わりたくない』でもなく、『自分と同じになってほしい』という同一化の欲望が行動理念になっている辺り、本当にお嬢に惹かれてたんだな、フミタン。

しかしクーデリアという人は世界を支配する『虐げるもの』のロジックには収まりきらない、天性のカリスマとしての才覚がやっぱりあって、フミタンが素知らぬ顔で投げつける現実の汚辱を真っ直ぐ受け止め、自分に出来る何かを諦めずに探すタフさもあったわけです。
それは多分、現実の蹉跌に押しつぶされ、スパイという立場に流されてしまったフミタン・アドモスが本当になりたかった、綺麗で強い理想……彼女の遺言を借りれば『希望』だったのでしょう。
自分が成りたくて成れない、泥を飲み込んでなお綺麗で強い存在に嫌悪しつつ魅了される、矛盾に満ちた逡巡。
彼女がそこに囚われている様子はこれまでも細かく描写されていますし、コロニー編が始まってからは相当直接光があたっていたコンプレックスだと思います。

ノブリスが象徴する現実的な生と、クーデリアが代表する理想的な死の間で悩んだフミタンは、幾度も河岸を変えながら最終的に死ぬ。
それはクーデリアという主要なキャラクターの成長に分厚さを増すための物語的養分であると同時に、もしくはそれ以上に、フミタン・アドモス個人の割り切れない気持ちの物語だったと思います。
その出処が愛しつつ憎む感情複合の発露だったとしても、フミタンがクーデリアに課してきた『虐げられしもの』との接触は彼女を鍛え上げてきたし、おそらくはフミタンの死を以ってクーデリアは革命家として大きな成長を遂げ、『虐げるもの』でありながら『虐げられしもの』を代弁する矛盾を許される資格を手に入れる。
このお話が捉えている物語はかなりくっきりと階層化されていると同時に、物語の都合とキャラクターの勝手が連動し、相互に響きあいながら展開する、結構豊かな語り口になっていると、僕は思うわけです。
フミタン・アドモスは己のコンプレックスに迷った果てにクーデリアに殉じて死に、その死は同時にクーデリアを成長させ孤立させる通過儀礼でもある。
そういう二重取りは、お話の語り口に真摯さと説得力を与えると思います。

そして何より、僕は彼女が死んでしまって悲しい。
現実と理想、生と死、過去と未来、妥協と冒険、あなたとわたし。
様々な極の間でふらふら揺れながら、最終的にかつて見た美しいものを信じて死んでいってしまったフミタンの姿は、綺麗で心に刺さるものだったけど、出来ることなら都合よく生き残って、別にクーデリアの成長の糧になんぞならずまだまだ鉄面皮を見せて欲しかった。
そうはならなかった無念と、そうなってしまったフミタンの気持ちを尊重したい気持ちの間で僕も揺れながら、彼女の死がどこに流れ着いていくのか、この後のお話を見守るつもりです。


クーデリアと同じように『虐げるもの』と『虐げられるもの』の間に立って奮戦しつつも、全てが滑り落ちてしまったサヴァランさんの悲痛な姿も、今回切り取られていました。
物語の中心に立つクーデリアと、エピソード単位のゲストであるサヴァランさんを残忍に対照する姿勢は、やはりブルワーズ編のヒューマンデブリを思い出します。
『虐げられるもの』として死地に赴かざるをえない立場、もしくは非常な現実の中で『虐げられるもの』とどうにか手を繋ごうとした『虐げるもの』という立場はそれぞれ共通しているのですが、あるいは生き残りあるいは死に、あるいはまだ可能性の只中に立ちあるいは全てを閉ざされて慟哭する。
この差異が単なる幸運/不運に由来するのか、はたまた主役と脇役という物語的役割に関係しているのかは、多分両方なので考えても詮無いところでしょう。
誰かが現実の残忍な牙から生き残らなければ物語は続かないし、誰かが現実に噛み砕かれる犠牲者を演じなければその残忍さは伝わらない。
それの役割分担こそが、主役と脇役の差異ってことなのかもしれません。

『虐げるもの』のシナリオに踊らされる労働者を、どうにか流血の少ない方向に導こうとして失敗したサヴァランさん、そしてナボナさんたちは、凄く無様に死にました。
鉄華団が彼ら脇役の物語に入り込んだタイミングは、もう不満が沸騰して吹きこぼれる直前だったし、そこに最後の一滴を加えたのは他ならぬ鉄華団です。
カメラに捉えられない彼らの屈辱と不満はしかし多分、鉄華団が野望を燃え上がらせる原因になった抑圧と同じであり、ブルワーズのヒューマンデブリと同じように、みっともなく踊らされ、勝手に期待して、無意味に死んでいった労働者は鉄華団が辿ったかもしれない、もう一つの可能性なのだと、僕は受け止めたい。
だから、悪魔と握手してでも守りたいものがあったサヴァランさんを嘲笑するつもりにはどうしてもなれないし、フミタンの死と同じように、彼らの死体を主役たちのお話が積み上がる足場とは考えたくないわけです。

そして、そういう願いをしっかり受け止める程度には、コロニーの労働階級を切り取ったカメラは冷静で、もしかすると冷静すぎたかもしれません。
やっぱ物語を視聴する時は『主役』という足場に体重を預けて進んでいくものであり、鉄華団という主役集団に属するビスケットが前回ラストでサヴァラン兄貴を思い切ってしまった時点で、ある程度の踏ん切りが付いちゃっていたんだなぁ。
そこら辺の『主役』『脇役』の冷静な線引が、シビアな世界に切り込みつつ一種の安全圏を約束する、ストレス・コントロールの巧さに繋がっているのかもしれん。

沢山の人を巻き込みながら転がっていく虐殺のシナリオですが、それを計画した側にも動きがありました。
ノブリスという『虐げるもの』の頂上に接触できるのは現状バリストン親分だけなんですが、木星圏の支配者だけあってただの人情家というわけではなく、クーデリアをビジネスの材料にする冷酷さを見せていました。
今回の取引の裏にどういう意図があるのかはこれから先明らかになるポイントですが、『家族』を一種の聖域としてきた鉄華団も、彼らが体重を預けているテイワズも、水杯だけでは割り切れないロジックを抱えているというのが見えてきました。
考えて見れば当然なんだけど、理想を追いかけ成り上がっている最中の若人と、既に大きなものを背負っている老人とじゃ大事にするモノは違うし、親分なりに大事なものを守りたいからこそ、今回の取引に繋がってんだろうなあ。
そこら辺の差異を掘り下げていく取っ掛かりになると思うので、親分周りの描写は今後注目していきたいですね。


『虐げるもの』と『虐げられるもの』の間にある埋めようのないギャップを、それでも埋めようともがく女のために、フミタン・アドモスが死んでしまう回でした。
兄弟に手を払われてそのギャップを埋める道を閉ざされ、慟哭するしかなかったサヴァランさんを背景に置き去りにして、来週のタイトルは『クーデリアの決意』です。
今後クーデリアが革命者として生き続けるのなら、彼女の輝きに惹かれて血を流し、手を汚させる存在は沢山いるでしょうし、今回流れたフミタンの血はその最初の一滴です。
おそらくは鉄華団を含む犠牲を決意して、クーデリアは前を向き一人で進んでいくのでしょうが、その厳しい道をどう描写するのか。
覚悟への地ならしとして説得力のある回だったと思うので、次回以降今回の贖いを膨らまし、より強靭な物語を紡いでいって欲しいと思います。